「あなたは初詣へ出かけましたか?」

先日、近所の人に聞かれ、「いえ、今年は行きませんでした」と答えました。でも、実は今年どころか、私はもうここ5年以上神社で手を合わせ、祈願していないのです。

私と氏神さまとの関係は、5年ほど前に大きく変わりました。それは、最愛の主人を突然の事故で亡くした頃。以前は、初詣にこだわらず、理由がある時でもない時でも、「夫と子どもたち、そして家族の安全のため」に手を合わせ、ハートを捧げ、自分の小さな存在を大いなるものと整列するように、心の位置合わせをしていました。

しかし、次男が生まれてまだ間もなかった、私たち家族にとってスウィートな時間の中。若かったパパを事故で奪ってしまうような神さまなら、私の心は「もうあんたの家になんか行かない」と、全身全霊で暗黙のプロテスト(抗議)を起こすように。その後、何度近所の小さな赤い鳥居の前を歩いても、一度もその下をくぐることなく過ごしていました。

生と死は命あるものの運命であり、大なり小なり(なんていうものは比べられないけれど)、そして遅かれ早かれみんなが体験すること。自然界の流れの中には命の誕生や新たな出会い。その姿を変容させてしまう病気や老い、そして、最終的に全員が迎える「死」というものが、一寸の間違いなく必ず起こります。私たちはその大いなる営みの中で生かされていることを、時に心地よく、時に愛おしく感じたり。時に恐ろしく思ったり、目を背けてみたり。宣戦布告するようにコントロールしようと試みたりもするけれど、最終的には大いなる流れに圧倒され、どこかで謙虚さを学ぶのが人の道なのかもしれません。

私は、あまり死を恐れる感覚はなく生きてきた方でした。夫との暮らしの中でも、言い残したことや、やり残したな……と悔いることがないほど。ヨガや瞑想のおかげだったのか、このような生き方ができていたことが救いです。しかし、だからと言って夫の突然の死というショックをすぐに認め、受け入れることができるかと言ったらそうではありませんでした。

私が馴染みのあるインドやアメリカの文化には、日本と比べ宗教観が異なることもあり、人にもよりますが、思い通りに行かない現実を前にした時こそ “God has a bigger plan for you.(神さまはあなたのためにもっと大きな目論見があるんだよ)”という考え方もあります。そうやって信念が支えとなり、辛い時期を乗り越える人も少なくないでしょうが……。私は、そうではありませんでした。

主人を亡くし、わずか数時間で絶望の果てまで一気に落ちた私にとって、神さまなんていませんでした。もし、神さまなんていう大いなる存在があるのだとしたら、どんなに狂った残酷な神さまなのか。考えることもできませんでした。とにかく私は、そんな神聖なものの象徴である鳥居をくぐったり、手を合わせ、お香を灯し、鐘を鳴らすような行為は、嘘でもできませんでした。「あんたになんかできない」と、口には出さずとも、私の華奢な体の何十兆個の全細胞は、個々にも、そして満場一致の団結力でも、全霊で喧嘩を売るように “神の存在”にプロテストしました。

そしてその日から、私は神社やお寺に手を合わせに行くことをピタッとやめました。

毎日一緒に暮らしていた一番大好きだった人が突然帰ってこなくなった中、嘆く私の心にとっては、自分本位に本心に沿った道を選んでいないと、生き続けられませんでした。そもそも、彼のいない人生を生きたいかどうかも分からなかったし、その上、自分の心に素直でない、ズレのあるような生き方をするのなら、もうやめたい。そんな気持ちの方が勝ってしまうかもしれない、生存の危機感と隣り合わせだったように思います。

ある意味、未亡人って無敵なんです。私は、多大な喪失感に飲み込まれたと同時に、仕事もできない、ろくに食べ物を口にすることさえできない、メールひとつ返すこともできない、社会から落ちこぼれた存在となりました。そのまま何カ月も意識すらはっきりしないまま過ごしたように思いますが、その全てが「許されていた」ようでした。周りのみんなと、それまでの私自身が一生懸命にはみ出さないよう暗黙に受け入れてきた、大人社会の礼儀や習性、メールが届いたら「お返事すべき」などの「べき」や、「こうした方がいい」といった考えも、一挙にチャラになりました。

私は、闇の底に居たけれど、同時にそこは社会の流れと程遠い、ルールのない、とても身軽な無法地帯でもありました。無法地帯では、社会やカルチャーのルールに囚われることがなかっただけ、いつにも増して自分の心のささやきに真っ直ぐになれました。「私にはそういうやり方でしか生き延びることができなかった」といった方が正しいかもしれません。

振り返ってみて初めて分かるのですが、このようにして私が社会の、そして “神さま”とのルールや一般観念から解放されたことは、大いなるギフトだと思っています。生ぬるい一般意識の中で、「でもお返事しなかったら人にどう思われるか」とか「嫌われるかもしれない」「認められないかもしれない」なんていう細かい恐れが、私にとっては意味のないものとなりました。そして、そういった見えない社会のしがらみから、良くも悪くも解かれたことで、私は改めて深く自分の中心とつながりに、心の奥に出かけたように思います。

ちょっと不思議な言い方かもしれませんが、皮肉にも、私が「もうあなたの家になんて入らない。そんなところで手を合わせない。おかしい! 何かズレている」と、譲らない態度で自分の味方になり、宇宙へ因縁をつけた時。なんとなくなのですが、全宇宙の営みを司る神さまがいるのだとしたら、なんだか私のそんなつけ上がった態度を、気に入って受け入れてくれたように感じられたのです。

私は巫女でも神主でもなんでもない、ただの直感の働くヨギーなのですが(笑)、もし “大いなるもの”に声があったなら、そんな私に、こんな風に語りかけているように感じられました:

おかえり、めい。

君のハートは、いつの日からも、君のものだったんだよ。

おかえり。

チョイスは、いつも君のもの。

元々の生得権へ、おかえりなさい。

宇宙は、君の正直かつ全力の存在に感謝しているよ。

君が何を選んでも、私たちは嬉しい。

だって、君が本来の君自身と、つながってくれたのだから。

世界中の人々は、神社や教会。モスクや拝礼堂へ出かけ、歴史的シンボルを用いて神に近づきたいがあまりに手を合わせ、供養して、多大な募金をしたりします。けれど、歴史やカルチャーは、所詮人間が作ったもの。素顔にメイクを乗せるように、カルチャーは人の行動や態度に色を乗せることができても、素直でピュアな、本質的な想いを偽造することはできません。歴史やカルチャーは、人に「 “ありがとう”を言わせること」はできても、「 “ありがとう”を感じさせること」はできない。偶然にも、私は闇のどん底において自分の心の奥とつながることを再発見したことにより、自分自身を“大いなるものの一員”として扱うように、私だけの神社の入り口を見つけたように思います。

だって、何千万回神社へ出かけ、何億円寄付金を捧げ、どんな聖典の祈りを暗記しても、あなたの心がそこになければ、その心の共鳴の無さを、あなた自身の心にごまかせないのと同等に、全宇宙の “神さま”だって見透かしていない訳がないでしょう?

ところで、もしあなたが初詣へ行ったなら、あなたの初詣は、形式だけでなく、どれぐらい純粋に、湧き出るようにあなたの心の奥とつながっていましたか?

おみくじの結果に一喜一憂するのも悪くないけれど、人の存在って、大いなる流れに生かされている中でも、本当はそんなにちっぽけで無力な存在でもないんじゃないかな、と思うのです。どんな運命を引いても、それをどのように受け止め、全うするかのチョイスは、いつもあなたにある。あなたが、本来のあなた自身のチョイスとつながった時に拓かれる喜びがあることを、私は知っています。

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吉川めい
ヨガマスター

MAE Y主宰、ウェルネスメンター。日本で生まれ育ちながら、幼少期より英語圏の文化にも精通する。母の看取りや夫との死別、2人の息子の育児などを経験する中で、13年間インドに通い続けて得た伝統的な学びを日々の生活で活かせるメソッドに落とし込み、自分の中で成熟させた。ヨガ歴22年、日本人女性初のアシュタンガヨガ正式指導資格者であり『Yoga People Award 2016』ベスト・オブ・ヨギーニ受賞。adidasグローバル・ヨガアンバサダー。2024年4月より、本心から自分を生きることを実現する人のための会員制コミュニティ「 MAE Y」をスタート。https://mae-y.com/