「瞑想は、私を思考の癖から解放してくれる」

と、冷蔵庫のホワイトボードに書いたのは何年前のことだろうか。もう覚えていないほど昔のこと。大切な言葉は、毎日目につく冷蔵庫またはトイレの壁に貼っておくのがマイスタイルなのです。

だけど、つい二日前の朝のこと。大切な会話の最中、ちょっと珍しいほど相手の言葉にカチンときた瞬間、そんな言葉をすっかり忘れている私がいました。

「感情トリガー」というフレーズを聞いたことがありますか? 日本語だと消費者がいかに広告に心理的に反応し、購入やシェアなどのアクションを起こすかといったマーケティングにおいて主に使われている用語です。しかし、英語で言う「エモーショナル・トリガー(感情的な引き金)」とは、マーケティング戦略以前に、心理的にもっと近くにある心のスイッチ。メンタルヘルスやウェルネスの領域で使われているキーワードです。それは、人の言葉や態度が引き金になることもあれば、外的な要因問わずふとした記憶や思い出から呼び起こされることもある、”正常な範囲を超えた”感情のリアクションを指します。

“それだけは言われたくなかった”ことを言われてしまった体験は誰にでもあるでしょう。あるいは逆に、地雷を踏んでしまったかのように、自分の一言で相手を熱くしてしまった、などということも。みなさんは、自分がいつ最後にカッとなったり、ちょっとのことで過度に傷つくような反応があったか覚えていますか? あなたはその時、衝動的なリアクションを取りましたか? またはその気持ちを抑制し、外に出さないで後々引きずってしまったことはありませんか? 

先日、私が思わずカチンときてしまったのは、子育てにおける私の判断力を疑うようなコメントでした。「ん? 今本当にそれ言った?」と、もう一度聞き返したくなるようなセリフに、私は胸の内でメラメラと熱の上昇を感じました。感情トリガー感満載だったにも関わらず、妙に「こんな感じは久しぶり!」と、それに気づいている自分もいて、私は衝動で言い返すことはなく、それなりに冷静に応えることができました。

子どもや家族のことになると熱くなりやすいのは、人の情です。「ヨガや瞑想を長く続けていても未だそんなことがあるの?」と聞きたい方もいらっしゃるかもしれませんが、私の答えは「Yes」です。以前よりもよっぽど減っているし、何より地雷を踏まれた時の理解とその後のケアが著しく成長していますが、地雷が完全になくなった訳ではありません。それだけ人の心は豊かで深い、とも思っています。

彼女も良かれと思って言ったつもりなんだろうな〜と。後になると思うこともありました。ただそれより何より、心の琴線に触れるところをトンカチで叩かれたように敏感に受け取っているのは私であり、そういう意味でこれは彼女の問題ではなく、私の中の問題である。と、今の私は捉えています。

彼女の話にそれなりに応えた私は、一目散にその場を離れたくなりました。一人になりたい。自分の心と座りたい。感情を観てやりたい。この熱の本当の意味を探りたい。そんな想いで、家に帰ったら真っ先にペンとジャーナルを取り出し、書き始めました。


① この件の何がそんなに嫌だったの?

1問目に自分のフィーリングの本性を尋ねてみる。

すると、私の手は勢いよく彼女の言い方が不公平に感じたことや私が不利になるような捉え方をされたこと、そして、ちょっと上から目線で哀れみを向けられたように感じたことを紙に吐き出しました。

② 嫌だったその要素は、どのように私の中に潜んでいる?

    2問目は、熱情で相手にばかり向けている責めの矢印を、一挙に自分自身に向ける質問です。

    なぜなら、私自身が嫌だと感じたその要素を自分の中に抱えていなければ、感情トリガーになる要因もないはずなのです。何を言われても、自分の中にその要素がなければ、それは自分と無関係だと感じるからです。この場合、哀れみに敏感だった私は、どこか心の奥で自分のことを哀れんでいた、ということ。その事実を直視する必要がありました。たとえわずかであっても、自分を哀れに思う観念が残っていた、ということ。グサッとくるけど、自分の境遇に悲観的になったり、少しでも被害者意識が潜んでいないか。相手のせいにする前に、自分の心を見直すタイミングでした。

    ここまで心の内を赤裸々にできたら、続きのジャーナリングは見事なまでにすんなり出てきました。

    ③ 自分の中に哀れみの要素が残っていることを必死に直そうとしたり、守ろうとしている自分がいない?

      だから人から言われることに過敏に反応してしまっていたんだ! 私自身の観念が強く働きかけていることでトリガーを作っていたことがクリアーに見えた瞬間でした。

      この辺から自分でもちょっと驚くような感覚になりました。

      ④ つまり自分が哀れだと思っているの? 

      自分のことを被害者っぽく思っているなんて、昔の母の思考癖にそっくり。

      その全てを直したくて必死になっている自分がいるなんて! 昔の父にあったパターンにそっくり。 

      書き出すことで、ついさっきまで内側で沸々と煮込まれていた感情や様々な思考の癖を光を当てるように見つめることができる。なぜ私はこんなに小さなことをここまで重たく自分事にしていたのだろうか? 書き出しながらもその内容を見直している自分が、全てを俯瞰して捉えていることが心地良く感じられました。感情も、トリガーも、リアクションも。要因となっている思考の癖や観念も。全部ただの癖。「私の癖」になる前に「ただの癖」であり、そう思うと、一気に穏やかさを取り戻すように、心に限りないスペースが広がるように感じられました。

      遠くの水平線を眺めるように内面で起こっている現象を見渡すこと。そのことが嫌だった自分も、嫌だった自分を守ろうとしたり、直そうとしたり、隠そうとしていた自分も。その全てを思いっきり自分事にしていた私も。「みんなみんな、居ていいよ」と、広い草原になったように許可してみる。様々な心のパーツを全てウェルカムする意識でいること。私も、自分のパーツを丸ごと抱いて座る。避けない。仕分けない。片付けない。目を背けない。トータルに「今ある全て」と一緒に在るのです。

      抵抗せずに、ただいさせてあげたら、「私は哀れ」なんていう思考は、無害でした。

      代わりに、抱きしめてみる。無条件に抱きしめてみる。

      恐れ多き地雷スポットよ。もう、恐がらなくていいよ。私は、あなたの本性を知っている。あなたの嘆きも恐れも知っている。大丈夫。もう、反応しなくていいからね、と。

      「瞑想は、私を思考の癖から解放してくれる」

      そう遠くない昔、感情のトリガーに動かされることが当たり前だった頃。自分をそのようにしか知らない時代がありました。「その思い=私」という観念が働いていたから、感情のトリガーに左右されない自分を知ることができませんでした。だけど、気づいたことは変えられる。思考癖のしがらみから自分を解放すると、ちょっと不思議だけど、なんだか親や先祖、子どもや未来の子孫まで喜んで、感謝してくれているように感じるのです。

      「カルマの浄化は七世代」。そう言えば、いつかガンジス川に浸かった日、川のほとりで出会ったお坊さんが、そう教えてくれたっけ。そんなことを思い出しました。

      ひと息ついて、私も自分に感謝してみる。

      すると、次の瞬間、私の地雷を踏んだ彼女の顔を思い出し、「ありがとう」と言いたい自分がいました。この引き金を、引いてくれてありがとう。

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      吉川めい
      ヨガマスター

      MAE Y主宰、ウェルネスメンター。日本で生まれ育ちながら、幼少期より英語圏の文化にも精通する。母の看取りや夫との死別、2人の息子の育児などを経験する中で、13年間インドに通い続けて得た伝統的な学びを日々の生活で活かせるメソッドに落とし込み、自分の中で成熟させた。ヨガ歴22年、日本人女性初のアシュタンガヨガ正式指導資格者であり『Yoga People Award 2016』ベスト・オブ・ヨギーニ受賞。adidasグローバル・ヨガアンバサダー。2024年4月より、本心から自分を生きることを実現する人のための会員制コミュニティ「 MAE Y」をスタート。https://mae-y.com/