ジェニファー(スコットランドに住む38歳の心理療法士)は暗くてじめじめした部屋にいる。家具はまばらで、むき出しの床板には錬鉄製のベッドフレームが置かれている。激しい風雨で窓ガラスが粉々に割れ、天井から水が滴って木材に染み渡り、その空間を満たしていく。やがて、その部屋はガタガタと揺れながら上昇を開始した。

混乱の中で、ぼんやりとした人影が浮かび上がる。顔は見えない。恐怖で全身の血管が収縮する。頭の中の声が「怖い、こっちに来ないで」と言うと、「また会おうね」という声が返ってきた。その声は、恐怖の中で好奇心が顔を出すほどやさしくて温かい。

ジェニファーは不意に目を覚ます。けれど、そこは自分のベッドの上じゃない。彼女はまだ家具がまばらで雨に濡れた部屋にいる。揺れは一層激しさを増している。そして、その人影に「私を信じる?」と聞かれた瞬間、彼女は気付く。自分がまだ寝ている、というかずっと寝ていて、明晰夢を見ているということに。すると内面の状態が変化して、恐怖が安心感に取って代わった。

ジェニファーが「信じる」と答えると、その人影は彼女の肩に手を乗せる。彼女は全信頼を寄せるように、その人影にもたれかかる。彼女の骨盤から頭のてっぺんは、キラキラと紫や黄色に輝く虹色の光で満たされた。

明晰夢とは

明晰夢は、それが夢であることを自覚しながら見る夢で、その中では次に起こることを自分でコントロールすることが可能。2010年に大ヒットしたレオナルド・ディカプリオ主演の映画『インセプション』を思い出してもらえると分かりやすい。

でも、ジェニファーはターゲットの潜在意識に入り込む夢泥棒ではなく、スコットランドに住む38歳の心理療法士。彼女は自分の夢を邪魔することで、心身を衰弱させるトラウマの症状を和らげてきた。彼女のトラウマには、幼少期の経験(ジェニファーは複雑性PTSDの要件を十分満たすと考えている)と、急性肝不全に陥ってコロナ禍の臓器移植で一命を取り留めたという衝撃的な経験の両方が関係している。

ジェニファーのトラウマ治療にはEMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)が用いられた。自分がクライアントに提供している統合的心理療法と並行してEMDRを用いることの有効性は、彼女自身も感じている。でも、突然の入院と体が回復するまでの不安から生まれたトラウマに、一段と深いレベルで対処できるようになったのは明晰夢を見始めてから。

ジェニファーにとって明晰夢を見るということは、物理学の法則に縛られない空間にアクセスするようなもの(手で壁を押したら、そのまま通り抜けて向こう側に出られる感じ)。その先の世界では一見不可能な現実を想像することすら可能。

実際にジェニファーは、そうすることで健康を取り戻した。2021年5月に急性肝不全を発症したあとしばらくは、自力でで息をすることも立つことも歩くこともできなかったけれど、粘り強い努力のかいあって、大好きな自転車に再び乗れるようになったばかりか、2023年の世界移植者スポーツ大会のサイクリング種目で金メダルを2つも取った。

こういう希望に満ちた驚異的な成功体験を聞くと、それは彼女が特別だったからであり、他の人には起こり得ないと思うかもしれないけれど、それは違う。ジェニファーは、明晰夢という神秘的なテクニックを用いることで自分の脳の住み着いた幽霊、つまり現実をさまよう記憶の断片に対処している多数の女性の1人に過ぎない。

それでは実際、明晰夢が見られるようになれば、トラウマを抱える多くの人が抜け出せずにいる思考回路を断ち切ることができるのだろうか? そして、この謎めいた明晰夢が近々心理療法の主流になる可能性はあるのだろうか?

明晰夢に関するエビデンス

英国ではトラウマ治療の必要性が非常に高い。慈善団体PTSD UKによると英国では推定650万人がトラウマと共に生きており、NHSの統計によると推定230万人はパンデミック中にトラウマ的な経験をした。この数字には、1人で出産した女性や救急サービスで働いていた人々も含まれる。

支援体制がまったくないわけではない。でも、英国の健康保険が適用される医療機関で英国立保健医療研究所が承認したトラウマ治療(EMDRを含む)を受けようとすると、数ヶ月待ちになる可能性がある。

チャーリー・モーリー博士は、副作用がゼロに近いトラウマ治療薬として、明晰夢に高い期待を寄せている。経験豊富な心理療法士のチームを率いるモーリー博士は、英国を代表する明晰夢の専門家。ジェニファーに明晰夢を見る方法を伝授したのも彼である。

モーリー博士は10代の頃に明晰夢を習得し、このテーマに関する著書も何冊か出している(『Wake Up To Sleep, Lucid Dreaming: A Beginner’s Guide To Becoming Conscious In Your Dreams and Dreams Of Awakening』など)。

このテクニックを主流に押し上げるため、モーリー博士はトラウマ治療における明晰夢の有効性を探るパイロット研究に取り組んできた。その研究の1つでは、PTSDの要件を満たすと自己申告した49名(そのうちの3分の2は女性)の参加者がモーリー博士の6日間のトレーニングに参加して、明晰夢の中でトラウマ的な記憶や悪夢に対処する方法を学んだ。

その結果、参加者の76%がトレーニング中に少なくとも1回は明晰夢を見ることに成功し、そのうちの68%は自分のトラウマが明晰夢を通して和らいでいると報告した。しかも、参加者の85%はトレーニングでトラウマの症状が大幅に軽減し、PTSDに分類されなくなったというから驚き。この効果はトレーニング後3週間にわたって続いた。

もちろん、この研究には改善の余地があるため、モーリー博士のチームは大規模なランダム化比較試験(科学研究においてゴールドスタンダートとされる手法)も実施しており、その結果は今年4月に出る予定。

先述のトレーニング結果を受けて、英キングス・カレッジ・ロンドンの臨床精神医学教授で英国王立精神医学院スポークスパーソンのニール・グリーンバーグ博士は次のように述べている。「この研究では、明晰夢を見たあとに症状が改善した人と、明晰夢を見ることはできなかったけれど症状が改善した人の比較がされていないため、トラウマの症状を改善させたのが本当に明晰夢だったのか他の“何か”だったのかの判断が付きません」

「また、モーリー博士のチームは広告を通じて参加者を募集したため、参加者は最初から明晰夢による治療を成功させたいという気持ちで来ています。よって、彼らは最初から治療の影響を受けやすい状態にありました」

こうした批判的な意見が存在する一方で、モーリー博士が当該研究を実施した米カリフォルニア州立ノエティック・サイエンス研究所は、超能力に関する研究を行うなどして、一般的な科学の限界を押し広げていることも言及に値する。

科学的に高いハードル

明晰夢の可能性は、たった1つの研究結果で決められるものじゃない。このテーマを掘り下げていくにつれ、臨床心理学や神経科学を含むメンタルヘルスの研究分野には明晰夢を支持する人が非常に多いことが分かった。奇抜な療法にいち早く反応する米国には特に多い。

クリステン・ラマルカ博士は睡眠と夢を専門とする臨床心理士で、明晰夢をカウンセリングメニューの1つにしている。「一般的なトラウマ治療は夢と睡眠の重要性を完全に見落としています。トラウマの中核症状は記憶の追体験であり、その追体験の一因となっているのが悪夢です。よって、悪夢を中断させる方法を習得すれば症状が改善するかもしれません」

ジェニファーと同様、ラマルカ博士にとって明晰夢はトラウマ的な記憶を安全に再現できる場所。安全と言えるのは、その夢の展開を自分でコントロールできるから。

「明晰夢の中では、苦しみや感情的な問題を抱えている自分自身とつながって、治癒に向かわせることができます」と語るラマルカ博士のクライアントには、幼少期の性的虐待に関する悪夢を繰り返し見てしまう人がいた。でも、ある日の明晰夢の中で彼女は加害者を追い払い、自分に近づかないでほしいと頼んだ。そこで2人の関係は断ち切られた。

目覚めたときの彼女は恐怖よりも安らぎを感じていたそう。その後3カ月経っても悪夢にうなされることはなく、彼女は心の平穏を取り戻した。

その仕組みを紐解くカギは神経科学にありそうな気がするけれど、米テキサス大学の心理学・神経科学助教授ベンジャミン・ベアード博士いわく、明晰夢のニューロメカニクスに関する研究は、その難しさゆえに初期段階を脱していない。

「明晰夢を見ている人の脳をfMRI(機能的磁気共鳴画像)で調べたケースはいまのところ1件しかなく、その結果は前頭前野の活動が増加していることを示していました」とベアード博士。「そのため、明晰夢を見ている人と通常のレム(急速眼球運動)睡眠をしている人で脳活動がどのように違うのかは、まだハッキリと分かっていません」。よって、明晰夢の中でトラウマを処理している人の脳活動を解明するのは、研究者にとって一段と高いハードル。

明晰夢が持つ可能性

著名な健康心理学者で、女性特有のトラウマを自分のクライアントを通して経験しているスーラ・ウィンドガッセン博士は、明晰夢に批判的どころか興味津々。夢の中でトラウマ的な経験を再現し、その力を取り除くという考え方は、少なくとも理論上は、トラウマ治療として理にかなっていると言う。

「PTSD患者の脳は、精神的な苦痛を伴わない経験とトラウマ的な経験を同じように処理しません」とウィンドガッセン博士。「“普通”の記憶は海馬という脳の領域で処理されて“長期ドライブ”に保存されます。この記憶は、いつでも取り出し可能です」

でも、トラウマ的な記憶はガラスの破片のように刺さったままで、他の記憶は薄れていっても薄れない。そして、音や景色、匂いなどが引き金となってフラッシュバックが生じると、トラウマ的な経験を嫌というほど完璧に追体験することになる。

ウィンドガッセン博士によると、トラウマに特化した認知行動療法とEMDRはどちらも、トラウマ的な記憶にアクセスし、その記憶に過去というタイムスタンプを押し、その記憶が持つ力を弱めた上で脳の海馬に紛れ込ませて負のループを断ち切る療法。明晰夢が同じように機能する可能性はゼロじゃない。でも、この分野の研究が非常に未熟であることを考慮すると、保険の範囲内で明晰夢の専門家の治療を受けられるのは当分先の話になりそう。

明晰夢の注意点

明晰夢に興味があるなら、この世には明晰夢を比較的簡単に見られる人と、そうでない人がいることを覚えておこう。専門家の間では、定期的に瞑想をしていると明晰夢を見る確率が高くなると言われている。また、チベット仏教では明晰夢が“ドリームヨガ”として知られ、スピリチュアルなツールとして使われている。

トラウマに起因するメンタルヘルス疾患を抱えていて、その治療に明晰夢を取り入れる場合には、他の代替医療と同様、科学的な裏付けのある一般的な療法を補完するものとして取り入れよう。

なお、PTSDに対する一般的な療法は、積極的なモニタリング(自分の症状が自然と改善しているか、4週間に和らぐかを見ておくことが重要)、トラウマに特化した認知行動療法、EMDR。持続性PTSDの場合はトークセラピーと抗うつ剤を組み合わせる。

一部の専門家によると、精神疾患のリスクがある人(双極性障害や統合失調症の既往歴がある人)は、夢と現実の見分けがつかなくなる可能性があるので明晰夢を見ないほうがいい。また、明晰夢では睡眠サイクルが意図的に乱されるため、睡眠障害がある人は必ず医師に相談を。

ジェニファーはというと、既存の心理療法を補完する形でクライアントにサービスを提供するべく、ファシリテーターのトレーニングを受けるほど明晰夢の能力を買っている。それどころか、明晰夢を利用して自分の頭が可能と思うことを押し広げ、自身の運動パフォーマンスを高めている(一流のアスリートにはよくある話)。

「上り坂のサイクリングで肺がつらくなってきたら、現実を曲げる明晰夢の経験を生かして自分に言い聞かせます。私にはあの坂を鷲のように翔け上がることができるんだよ、と」

※この記事は、イギリス版ウィメンズヘルスから翻訳されました。

Text: Claudia Canavan Translation: Ai Igamoto

Headshot of Claudia Canavan
Claudia Canavan
Health Editor

Claudia is Health Editor at Women's Health. She commissions, edits and writes about topics including the happiness potential of less conventional relationships, the future of genetically modified food, how hormonal changes can play with your sleep and the ways in which vaccine disinformation spreads.
 

Headshot of 伊賀本 藍

ウィメンズヘルス立ち上げ直後から翻訳者として活動。スキューバダイビングインストラクターの資格を持ち、「旅は人生」をモットーに今日も世界を飛び回る。最近は折りたたみ式ヨガマットが手放せない。現在アラビア語を勉強中。