メンタルヘルスへの関心が高まる中、最近欧米では「healthy boundaries = 健全な境界線」というフレーズをよく耳にするようになりました。

多くのストレスの要因となる、人間関係。そこには、切っても切れない縁や職場などで避けられないつながりも少なくないのではないでしょうか。

「健全な境界線」とは、文字通り自分のメンタル及び感情面のバランスを健全に保つために、必要に応じて自分のために作る“ライン”のこと。英語の表現としては「しっかりとした境界線を保つ」「曖昧な境界線を確かめる」の他「(必要な)境界線がなかったことについて考えさせられた」など、様々な用途で使われます。また、最近では一般的に健全な境界線は作るべきもの、あって当たり前なもの。そして自分の境界線はもちろん、人の境界線もリスペクトするべきもの、といったニュアンスが日常会話の中でも受け取れます。

日本に馴染みのある表現でやや似ているのは「距離を置くことにした」というフレーズです。ただ、英語で言うhealthy boundariesの場合おもしろいのは、その境界線は必ずしも「物理的な距離を意味しない」と言うこと。ここで少し、私の経験から健全な境界線の必要性、そして役立て方に触れてみたいと思います。

みなさんの人生には、どんなに頑張ってもなかなかうまく行かない人間関係がありますか? これに悩んだり、引っかかったりしている経験はありませんか?

十人十色な世の中で、時には人とぶつかり合うことは普通のことでしょう。しかし、ぶつかり合う人が血縁の家族だったり、愛している相手だったり。愛されたい、理解してもらいたい相手だと、切っても切れない縁の中でグルグルと絡まり合い、健全な距離感や境界線を保つことが難しいと感じる人は意外と多いのではないでしょうか。

実は私の人生にも一人、そんなちょっと難しい仲の人がいます。彼女が私にとって大切な存在であるからこそ、私は私なりに長年彼女のことを愛そうと、愛したくて努力していたように思います。いえ、間違いなく愛しているんです。今でもそうです。

最初の頃は、彼女のことを喜ばせたい自分がいました。私なりに、彼女の要望に応えてきました。何度も、何年も応え続けました。そして、彼女の要望が私自身の考えにそぐわない時、私は彼女にそのことを伝えようとしました。しかし、異なる思いを伝えても分かり合えなかったことは度々起こり、私の伝えようとしていることを聴いてもらっているとすら感じられないことが多々ありました。このような経験を重ね、私の心は傷ついてしまいました。

けれど、今の私にはわかります。彼女と分かり合えなかったことより、私自身が傷ついている自分を無視してでも彼女に応え続けようとしてしまったことに、本当は一番痛みを感じていたことを。彼女との関係性に調和を保ちたかった想いが強かったのだと思います。私は、知らぬ間に自分の思いや感情を少し殺してでも彼女の思いや感情を優先しようとしていました。

私にとってこのバランスはキープできるものではありませんでした。なぜなら、その時の自分の思いを二の次にしても、その思い自体が消滅する訳ではなかったし、そうして自分の内側の思いと外側の行動とのギャップは「ストレス」という形で私の中に静かに蓄積されてしまいました。次第に、そのストレスは彼女に向けた反感にもなってしまいました。

それほど頑張って彼女のことを喜ばせたかった私は、もしかしたら、同時に彼女を怒らせたくないという恐れを抱いていた私でもあったように思います。愛そうとしている私は、本当は同等に愛されたかった。ただ気づいて欲しかった。言葉にして分かり合えないことはあっても、やっぱり私は、本当は彼女に私の想いに耳を傾けてもらいたかった。理解できなくても、ただ、聴いてほしかったのだと思います。

私の心の傷の痛みは、信号となり、きっかけとなり「自分にどうにかできること」と「自分には変えられないこと」の違いを教えてくれました。このような心の内の明晰さは、私にとって瞑想とマインドフルネスの最大のギフトであるように思います。裸な自分の思いや気持ちを、映画を観ているかのように心の内で観覧する。そうして私はこの傷と反感というリアクションを、彼女のせいにすることはなんの役にも立たないことを直視しました。その時、愛し合っている仲にも健全な境界線が必要なことがあると、気づかされました。

日本語の「諦める」とは「明らかに見極める」からきているそうですが、彼女の考えや振る舞いは自分の手に及ばないと、それを見極めることは、諦めることでもありました。どんなに分かって欲しくても、彼女が分かろうとするかしないかは、彼女の範疇にあり、私の手には及ばない、と。どんなに近くにいたくても、近くにいることで起こるダメージの方が大きいのならば、遠くから愛し続けるという選択肢もあるのではないか、と。そうして私の心の中には “Some people are easier to love from afar.(遠くからの方が愛しやすい人もいる)”という、口には出さない心のモットーが生まれました。

最初の頃によく感じていた寂しさや切なさは、明らかに見極めたことと同時に、次第にフォーカスの調整へと変わっていきました。私は、自分の力で変えられないことにエネルギーを注ぎ続けることをやめ、変えられる力のあるものにフォーカスしていこう。そう心底思えたのです。

相手が家族や親族など、近しい間柄であるほど、健全な境界線の作り方、そして保ち方は難しいことのように思います。しかし、ここで言う「距離」とは、必ずしも物理的な距離である必要はなく、自分の心の持ち様の意識でも十分にできること。少しずつ、その心の境界線が、自分自身に優しいものであるように。自分で健全な境界線を見極め、メンテナンスし、必要に応じて再調節することを知りました。

健全な境界線とは、絶対的な「壁」や「ブロック」である必要もなく、もし一つだけそこにルールがあるとしたら、それは「自分にとって優しいものであること」、そして本質的には「相手にとっても優しいものであること」。この二つを考えるようになりました。なぜなら、度々傷つくことはもちろん辛いし、嫌だけど、自分を度々傷付けられる立場に何度も置いてしまうことは、自分のためにも、本当は相手のためにもならないからです。健全な境界線を作ることは、セルフィッシュでもなければ人を傷つけるものでもないはず。ここでは、いっときの状態より、永続的な結果を見通す力も大切だと思います。

そうして自分で自分自身の心を見守ることを始め、私にとってちょうどいい境界線のあり方を、物理的な距離、電話やメールなどの連絡方法や頻度など、自分で手綱を握り選ぶようになったら、次第に私の心から変な頑張りがどんどん抜けていきました。自分の中から「近くで愛さなければ」「このような愛し方をしなければ」「分かってもらわなければ」という、ねばならぬの鎖が解かれるように、素の私の在り方、そして私の愛し方に自由を与えることができるようになった気がします。

そうしたら、いっときは重たい気持ちや反感まで抱いてしまった大切なあの人に対して、もう一度、ナチュラルで自発的な「本当は大好きなんだよ」という気持ちが戻ってきました。その時、その気持ちは本当は一度もなくなっていなかった、ただ、他の一時的な感情に覆われていたのだと知りました。

そして気づいたのです。

本当は、ただ愛したかったんだって。

近くても遠くても、ただ愛したかっただけ。それがいつの間にか「こうあるべき」「こうあってほしい」という観念に狭まれ、少し不器用になってしまっていただけだったのかも。

もう一つ、彼女をきっかけに教わった大切なことがあります。それは、近くても遠くても、他者を上手に愛するためには、自分を敬愛することをスキップしてはならないのだ、ということ。自分に優しい境界線を明らかに見極めることは、ひいてはお互いにより優しくなれる世の中を作ってくれるのです。


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吉川めい
ヨガマスター

MAE Y主宰、ウェルネスメンター。日本で生まれ育ちながら、幼少期より英語圏の文化にも精通する。母の看取りや夫との死別、2人の息子の育児などを経験する中で、13年間インドに通い続けて得た伝統的な学びを日々の生活で活かせるメソッドに落とし込み、自分の中で成熟させた。ヨガ歴22年、日本人女性初のアシュタンガヨガ正式指導資格者であり『Yoga People Award 2016』ベスト・オブ・ヨギーニ受賞。adidasグローバル・ヨガアンバサダー。2024年4月より、本心から自分を生きることを実現する人のための会員制コミュニティ「 MAE Y」をスタート。https://mae-y.com/