二十歳の頃の私は、新しい出会いや場所、そして経験をとても楽しみにしていました。人を知りたいという興味もありましたが、何よりそれらの経験を通して自分自身のことをより良く知りたかったのだと思います。

決して今の私が新しい出会いを楽しみにしていない訳ではありませんが、気づけば新しい出会いや出来事に向かっていく心のスタンスが大きく変わったように感じます。一言で言ったら、より総合的になりつつあるように思います。

一生物だと思ってした結婚が、思いもよらない流れで崩れ落ちたり。安定していると思っていた就職先が破綻したり。「私は大丈夫」と思っていた病気にかかったり。以前は想像さえ及ばなかった「まさか」の出来事が、自分や家族、そして友人達に起こることを目の当たりにしてきています。だからこそ、出会いと別れ、始まりと終わり。一時的なものと永続的なものを合わせて、より総合的に捉えるようになってきたのです。

そんな中で、私は何を学び、何に気づいてきているのか。

例えば、初めての妊娠の時は、妊娠中の過ごし方や出産準備ばかりにフォーカスしがちだったけれど、後になったらもっと産後の産褥期について勉強しておけば良かった、と思ったこと。

出会いばかり楽しみにしていたけれど、人の本性は出会いよりむしろ「どのように別れるか」で一番見えることを知ったこと。しかもそれは恋愛関係だけでなく、雇用関係でも友人関係でも、別れ際にこそはっきり見えることを知りました。事の始まりやいい時ばかりでは知ることができない、人の強さと弱さの全貌を目撃すると、その両方の中でこそ見えてくる真の姿について考え、人間という生き物により深い魅力を感じるようになりました。

別れや事の終わりの切なさがなくなった訳ではないけれど、「いい別れ」の価値を知り始めたら、いい別れで終わる関係性からはその後も恩恵をもらい続けることにも気づかされました。人の価値観とは、様々な人生経験を通して視野が広がるものなのかもしれません。

では、その価値観を「より良い人生を生きること」だけでなく「より良い死を迎えること」に当てはめてみるとどうでしょう。私がそんなことを真摯に考え始めたのは、30代前半で母を亡くした頃だったと思います。母の死をきっかけに、自分のエンディングノートを作ってみました。親戚の叔母には「60代の私たちが考えているようなことを、こんなに若いあなたが考えているの!?」と驚かれましたが、いつ終わりを迎えるか分からない身の回りの整理をしておくことは、自分よりも残された人のためになることを身をもって知ったのです。

そして何より、エンディングに向けての心の準備を始めることは、やり残しのない、後悔のない生き方にフォーカスすることである、と体感できる心地よさがありました。私の中でこれは、長年ヨガやインド哲学を通して学んできた大切なことでもあります。後悔のない生き方とは、明日死んでもいいように今日を生きること。だから本当は、エンディングの準備をすることは「今」に最も深くつながることだと思うのです。

全米で大人気の司会者であり、テレビネットワークプロデューサー、慈善活動家として著名なオプラ・ウィンフリー氏が、恩師でありメンターだった作家、マヤ・アンジェロウ氏との非常に印象的な会話をシェアしていました。

ウィンフリー氏は多大な影響力を持つことで有名ですが、彼女自身は50代に入ってやっと「これこそが自分のレガシー(生涯をかけて残すもの)になるかもしれないと思うものができた」と話しました。それは、南アフリカ共和国の反アパルトヘイト運動に身を投じたネルソン・マンデラ元大統領との対談後、2007年に彼女が南アフリカに建てた教育機構のこと。「自分と同じような身分の子どもたちに機会を与えたい」という想いをもとに、貧困層の女の子たちのために開始された学校です。

しかし、ウィンフリー氏の言葉を聞いたアンジェロウ氏はとっさに、「あなたのレガシーがいったい何になるのか、あなた自身に分かるはずがないじゃないの」と返したと言うのです。

「あなたが残すレガシーは、あなたの存在が触れてきた全ての人の心にあるのよ」と断言したそうです。

知ったつもりになっていたけれど、実は何も知らなかった。そんなことに気づかされる時、どんなに偉大な人でも謙虚さに包まれる瞬間があります。それは、相手に対する謙虚さというより、目の前で繰り広げられている人生自体に対し、「そうだった。私は、本当は何も分かっていなかった」と謙虚でオープンになる瞬間であるように感じます。

ウィンフリー氏のように著名な人でなくても、大人になったら誰だって「分かったつもりになる」ことが日々あると思います。けれどそれって、未来を自分の手で決められるつもりになっているような錯覚を起こしていることでもあります。なぜなら本当は、人はいつ、どのように亡くなるか、誰も分からない中で生かされているからです。「知ったつもりになっている」内側の傲慢さを手放すことは、次の瞬間に何が起こるかは知り得ないという「未知」に近寄ることでもあるのです。

少し怖いような、ワクワクするような。

無防備な子どもに返ったような“ちっぽけさ”に、私は妙に人として安堵感を覚えるような感覚もあります。分からない、そして分かりきることのできない目の前の現実を、よりトータルに捉える準備ができてきたからでしょうか。これからの私は「分かりません」と言える自分を抱きながら、今日、この日を大切に生きてみたいと思います。

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吉川めい
ヨガマスター

MAE Y主宰、ウェルネスメンター。日本で生まれ育ちながら、幼少期より英語圏の文化にも精通する。母の看取りや夫との死別、2人の息子の育児などを経験する中で、13年間インドに通い続けて得た伝統的な学びを日々の生活で活かせるメソッドに落とし込み、自分の中で成熟させた。ヨガ歴22年、日本人女性初のアシュタンガヨガ正式指導資格者であり『Yoga People Award 2016』ベスト・オブ・ヨギーニ受賞。adidasグローバル・ヨガアンバサダー。2024年4月より、本心から自分を生きることを実現する人のための会員制コミュニティ「 MAE Y」をスタート。https://mae-y.com/