結婚。

華やかなはずのこのワードを重たく感じてしまう人はどれだけいるのでしょうか? ブライダルショップの広告がどんなに頑張っても、現実の社会ではもはや「結婚」というふた文字を純粋に明るく感じられる人は少数派ではないかと思うほど、なんとも言えない荷の重さを醸し出しているように感じます。

それもそのはず。マインドフルな観点から「結婚」というワードを見てみると、そこには一本の赤い糸どころか、「観念」という名の見えない糸が巨大なクモの巣のごとく絡まりまくっていることが分かります。「結婚は35歳までにするべき」「40代に差し掛かって結婚できなかったら”売れ残り”」「結婚は一生モノ」など。どこの誰が決めたのかさえ分からない観念を、本当に自分の意思で合意できるものなのか確認もしないまま、親や社会の圧を受けて鵜呑みにしてしまい、苦しんでいる人もたくさんいるようです。

私はと言うと、今さら言うのも恥ずかしいくらいですが、20代後半まではなんとなく、シンデレラストーリーのような一人の男性と永遠に愛し合うような「結婚」という形のパートナーシップを信じていました。当時の私には、「それもただ一つの観念だ」という自覚はありませんでした。しかし、当時親友だった年上の女性から、「そういえばあなたはシンデレラストーリーを信じるタイプだもんね。あなたの夢を崩すつもりはないけれど、私は結婚について同じように考えていない」と言われたことも忘れられません。

彼女は、結婚について比較的ドライな見方をしていたように思います。好きの気持ちも大事だけど、結婚は家族がするもの。相手だけでなく、そのご両親や家系など、広い視野で「全体得点」を考えていたようです。

そう、「考えて」いたのです。

誰かや、何かを好きになる時。人は好きの気持ちに任せ従う勢いがあるけれど、いざ縁を結ぶとなると、気持ち任せではなく頭を使う。むしろ、メロメロになって頭が使えなくなっている本人のためを思って、親が口を挟んだり、親が主軸になって結婚を選ぶ文化もあります。

そこには、「結婚」に絡み合う最も大きな観念が関わっているように思います。それは「 結婚は“失敗”してはならない」ということ。それはつまり「離婚は“失敗”だ」と言っていること同等でもあるのではないでしょうか。

結婚=成功。

結婚を選ばない人々(特に女性)は売れ残り。

離婚は失敗。できるだけ避けるべきこと。

言葉にして発言されてもされなくても、見えない観念はのしかかります。

しかし、結婚とは本当に一律に「=成功」なのでしょうか?

結婚は、若者が人生で目指すゴールにすべきほど、重要なのでしょうか? それは誰にとって都合のいいゴールなのでしょうか?

一つ確かなこととして言えるのは、結婚をしてハッピーになる人もいれば、離婚をしてハッピーになる人もいるということ。もっと言えば、結婚をして不幸せになる人だって、世の中にはたくさんいます。

bride and groom wedding figurines
Peter Dazeley//Getty Images

そう遠くない昔にシンデレラをサクセスストーリーとして挙げていた少女だった私。当時の私は、言葉にすることはありませんでしたが、心の奥のどこかで「離婚は失敗だ」と、無意識の観念を抱いていました。

今思えば、それはただ「自分が離婚をしたくなかった」(なぜなら思春期の頃に両親の離婚を体験し、とても傷ついたから)なのですが、自分の恐れが観念となり働いているとは知らず、知らぬ間に自分の目から見る「離婚者」をジャッジしてしまっていました。

例えば、ヨガをたくさんするようになり、20代で通い始めた南インドでは、総本山のヨガスクールで世界中から集まる先輩たちに囲まれていました。本場のヨガは、身体的なフィットネスのために行うものというより、日常の中で活かすアウェアネスを育み、精神統一を計るための行。だからこそなのですが、ある日、先輩に誘われて初めて彼の尊敬する大先輩のお家にお邪魔した時。私より20年以上年上で「ヨガの練習も長く続け、とても進んでいる人」と思い込んでいたその方がこぼした、「今、4回目の離婚の真っ只中で、ゴタゴタしていて大変なんだ」という言葉にとても衝撃を受けたことを覚えています。

今、振り返れば分かるのですが、私のショックには二つの大きな観念が働いていました。

  1. ヨガが進んでいたり、精神性の高い人は離婚をしないはず
  2. だって、離婚は”失敗”だから

といった観念です。

今なら明らかに分かるのですが、この二つの観念はどちらもウソ。みじんも真実のない、ただのウソを知らぬ間に「自分の中の真実」にしてしまっていたのです。自分の観念によって真実が見えなくなっている。これこそ、無知の定義です。

それから数年後のこと。私は30歳の時に5年間の順風満帆のように思えた結婚生活を経て、自分自身にとってもショッキングな離婚に至りました。人の話ではなく自分の体験によって、そんな心の内の観念のウソを突き破るチャンスをもらったのです。

おかげで今の私は「離婚はチョイスであって、失敗ではない」と考えるようになりました。「成功」や「幸せ」の形を結婚と結び付けたければ結び付けることも一つのチョイスだけれど、結び付けないというのも素晴らしいチョイスである。心底そう思うようになりました。

「結婚」についての観念は世の中にたくさん溢れていますが、みなさんは結婚についての観念と同時に、自分が「離婚」についてどう思っているかを意識したことはありますか?

ちょっと変わった言い方かもしれませんが、今の私は「離婚」も一つの進化の姿かな、と思うのです。二人の人間のそれぞれの進化がどうしても並行したパートナーシップに相応しくなくなった時に、一つのチョイスとしてあるもの。そう言った意味では離婚も結婚も同じ。ただ季節の違う進化の形のように思えます。

片方を祝福し、片方をけなすように見下し「バツ」とレッテルを貼るのではなく、どちらもページをめくるように進む進化の季節。そんな風に見ることができたなら、結婚を選ぶことも選ばないことも、離婚を選ぶことも選ばないことも。どちらも有効なチョイスとして認めることができ、観念の下で変に重みを感じ過ぎることなく、リスペクトできるのではないでしょうか。

結婚生活を楽しんでいるのなら、それは素晴らしいこと。祝福すればいい。だからと言って結婚という形を選ばない人に対して優越感を装うことはできません。同じように離婚者だって、離婚をしたからって“失敗者”であり「負け組」のような劣等感を感じなくていい。みんなただ立派に生きようとしている、進化途中の人間なのだから。 

レッテルを貼ることやジャッジすることは、せいぜい一時の判断にしか過ぎません。実際には人は皆、時に勝ち組気分になり、時に負け組気分を味わう生き物。私は、自分の経験が豊かになればなるほど、そもそも勝ち組や負け組、善と悪といった表面上の枠組みで物事を捉えられなくなってきているように思います。強いて言うのならば、最後に残る大切な判断基準は、何をするかしないかといったことではなく、自分の人生において、自分自身で選び抜いたチョイスを認め、受け入れ、「これで本当によかった」と納得がいく生き方ができているかどうか、ではないでしょうか。

私は、自分のチョイスが決して完璧だったとは思っていませんが、一つも後悔しているものもありません。もし、後悔があるのなら、「今日、それを変えよう」と選び直すことができるのだから。

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吉川めい
ヨガマスター

MAE Y主宰、ウェルネスメンター。日本で生まれ育ちながら、幼少期より英語圏の文化にも精通する。母の看取りや夫との死別、2人の息子の育児などを経験する中で、13年間インドに通い続けて得た伝統的な学びを日々の生活で活かせるメソッドに落とし込み、自分の中で成熟させた。ヨガ歴22年、日本人女性初のアシュタンガヨガ正式指導資格者であり『Yoga People Award 2016』ベスト・オブ・ヨギーニ受賞。adidasグローバル・ヨガアンバサダー。2024年4月より、本心から自分を生きることを実現する人のための会員制コミュニティ「 MAE Y」をスタート。https://mae-y.com/