人の家の玄関先で泣いてしまった。それは、悲しい涙ではなく、ちょっとの優しさをもらったことでそれまで抑え込んでいた感情が溢れてしまった、不意の涙でした。

二十歳前後の私は、周りの大学生仲間とは違って、ストレスの塊でした。母が脳神経疾患を持っていて、病状の悪化による障害が日に日に進んでいた頃。自分の進路やその先の人生について行き先を見失い、精神的にボロボロでそれどころではなくなっていました。当時は今のようにメンタルヘルスやウェルネスについての意識もなかった時代背景の中、私は自分に何が起こっているのか、誰にどのようなヘルプをお願いしたらいいのか分からないまま彷徨っていました。そして、分からないまま「自分でどうにかせねば」と考えるようになっていました。

母のケアをしながら、モデルの仕事と学業を両立することで、少しでもお金を稼いで学費を自分で払おうとしていた頃。切羽詰まった私に何気ない一声をかけてくれたのは、近所のおばさんでした。「あまり頑張りすぎないでね」と。

私は、そのささやかな想いに触れて、踏ん張っていた心のダムが崩壊したかのように、彼女の玄関の外で号泣してしまいました。それを見た彼女は「みんな、ギリギリのところで頑張っているのよね」と呟きました。

助けが必要なら、誰かに話してみればいいのにと、今の私なら思うのですが、当時の私にはそんなことすら分かりませんでした。もっと言うと、「人に助けをお願いしてもいいんだ」という発想に至ることができないほど、「世の中は厳しいところ。だから自分で頑張らなければならない」という先入観があったのでしょう。

おばさんは、そんな私に本を一冊貸してくれました。「一冊しかないから、終わったら返してね」と言いながら。

今思えば、それはヨガを始める以前の私が、初めて深くスピリチュアルな内容に触れるきっかけとなった本でした。そこには「自分の心のワクワクすることに従いましょう」というメッセージが明確に綴られていました。そんなことをしていいものなのかと、当時の私にはなかった発想を届けられた気がしました。

しかし、気持ちはそそられつつも、ボロボロだった私の心は「ワクワクすること」が思いつかないほど気力がダウンしていました。むしろ、「こんなことさえ私には思いつかないのか」と、さらに凹んでしまったのです。ただ、ページをめくると次の瞬間に届いたのは、「ワクワクしないことをやめることから始めよう」という小見出しでした。「これならたくさんある。これなら私にもできる」と、とても胸を打たれたことは、私の人生のターニングポイントの一つでした。

何でもかんでもYESと言って人に合わせていた私にとって、NOと言うことは多大な勇気が必要でした。人から批判されるのではないか、嫌われるのではないかと恐れました。「お前、付き合い悪いな」と言われ、その恐れが本当になることも多々ありました。しかし、逆に「そうだよね、めい。いつも頑張っているもんね。少しは休みな」と、思いがけない優しさでサポートしてくれるお友達もいました。

徐々にですが、そうやって私の友人関係はふるいにかけられていきました。私が自分のためにNOという選択をすることをサポートできない人たちは、最初から私が本当に求めているお友達ではなかったことが分かりました。そして、人付き合いが淘汰されていくと、より自分に合った人間関係が入ってくるようなスペースが生まれ、新たな出会いにも恵まれました。

必死すぎて当時はそこまで自覚を持てていませんでしたが、それは「決断の力」を自分自身に発揮した出来事でした。

条件が揃ったら決められるとか、他の人が決めた後に自分が決める、といった受身な考えではなく、「先手を打って決める」ということ。

私は人からのお誘いや周囲の動きを待って、様子を見て、それに自分の在り方を合わせるのではなく「自分の合う・合わないの感覚に耳を傾け、本当にワクワクできないことにはNOと言う」と先に決めたのです。

先日友人とランチしていたら、フリーランスでお仕事をしている彼女は似たようなことを話していました。「知り合いの紹介でお仕事の案件をいただいて。実はあまり心に響いていなかったんだけど、まぁできなくないかなと思って受けたんです。だけど、やっぱり最終的にはあまりいい結果に至らなくて。それ以来、私は本当に自分の魂を込められるようなお仕事しかもう受けない、って決めました」と彼女は話しました。

ズレを感じて、修正する。

学んで、気づいて、決断すること。

例えば、ヨガの練習ではポーズの中で身体のアラインメントを整えていきますが、それはズレを感じて→修正する、というプロセス。

同じように、お料理をしていても、作りながら臭いを嗅いだり、味見をして、ズレを感じたら微調整をして、希望に近づけて仕上げる。

私たちはこうやって外的なことについては当たり前のように「整える」という作業をするのに、どうして同じように「心のズレを整えること」とか「人間関係の微調整をしてもいいのだ」と、教わってこなかったのだろうか? 

英語のことわざで、こんな言葉を聞いたことがあります。

人生には、3つの偉大なミステリーがある:

鳥にとって、それは空気である。

魚にとって、それは水である。

人類にとって、それは自分自身である。

「汝自身を知れ」とは、古代ギリシャから伝えられる標語ですが、そもそも自分自身の想いや本心を知らず、ズレを感じる根源に気づけていなかったら、修正能力が働く訳がありません。また、「ワクワクを選ぶ生き方をしていいんだよ」という許可こそ、受身のまま人から教わることを待っているのではなく、自分自身で決断し、切り拓いていくことに意味があるチョイスなのでしょう。

私にとってそれは、その他の道が辛くなりすぎた時に、必要に迫られた決断でした。ですが、その先で知ったことは、以前の私が「自分はワクワクを選ぶ生き方をしていいのだ」と感じられないほど自己価値が低かったこと。自己価値が低いから、人に合わせて人に認められる必要性を感じていたこと。ちょっとずつ行っていったズレの修正は、そもそもの根底にあった「私は無価値」といった、大きな観念のズレを私に気づかせてくれました。

ワクワクを選んだところで、人生はまだまだ私に数々の変化球やチャレンジを投げかけてくることも感じます。だけど、そんな中、一つ確かなことがあります。その全ての気づきと学びが、私自身のためになっているという実感があること。それは、ズレの調整が進めば進むほど、どんどん私がより自分らしく輝け、成長していることが感じられるからです。だからこそ、ズレの修正は本当に大変な作業であっても、その価値があるんです。毎回、必ず、その大変さを遥かに超える価値を受け取っています。

ズレはサイン。

ズレを感じて→凹んで→くよくよする。

のではなく、

ズレを感じて→なぜズレているのか、本心をキャッチして、自分自身をより良く知って→修正する。

それって自分をより上手く愛するためのレシピなのかもと、ふと書きながら思いました。サクセスフルに自分らしさを楽しむ人生を歩む人たちは、このプロセスが早かったり上手かったり、そもそもこのズレの修正プロセス自体を楽しむことを知っているのかもしれません。

Headshot of 吉川めい
吉川めい
ヨガマスター

MAE Y主宰、ウェルネスメンター。日本で生まれ育ちながら、幼少期より英語圏の文化にも精通する。母の看取りや夫との死別、2人の息子の育児などを経験する中で、13年間インドに通い続けて得た伝統的な学びを日々の生活で活かせるメソッドに落とし込み、自分の中で成熟させた。ヨガ歴22年、日本人女性初のアシュタンガヨガ正式指導資格者であり『Yoga People Award 2016』ベスト・オブ・ヨギーニ受賞。adidasグローバル・ヨガアンバサダー。2024年4月より、本心から自分を生きることを実現する人のための会員制コミュニティ「 MAE Y」をスタート。https://mae-y.com/