SNSを見て自分を他者と比べ劣等感を感じてしまうという現象は、近年、感染症のように広まっています。素敵なバカンスや美しいボディだけでなく、衣食住を豊かに見せるライフスタイルのシェアは、ときめきを誘うインスピレーションになることもあれば、「いいな〜」と羨み、「それに比べて私なんて……」と自虐に走るきっかけになってしまうことも少なくありません。

劣等感を感じるきっかけは、いつの時代でも、いくらでも見つかったことでしょう。SNSが盛んになった現代では、実際以上にきらびやかなイメージが活用されることから、本当でもないイメージに気持ちを持っていかれてしまうことも多々あるでしょう。

しかし、きっかけは外からもらっても、劣等感を作り出しているのは、結局は自分の心。その証拠に、同じイメージを見ても、劣等感を感じる人もいれば、喜んで祝福する人もいるし、また、何も感じないという人もいるのです。

皮肉にも、劣等感を苦しく感じている人ほど、逆に自分が素敵なバカンスに出かけたら、負けじと理想のワンシーンを投稿することに必死になることでしょう。それって、優越感を感じることで劣等感を解消しようする心のリバウンドではないかと思うのです。

劣等感とは単独の問題ではなく、そうやって優越感とセットになって作用するもの。だからこそ、劣等感だけをなくそうとして、優越感について対処していないと、反動を繰り返すように何度でも劣等感は戻ってきます。劣等感で悩んでいる人の多くは、自分の価値を過小評価したり、そもそもの自尊心が低いと思いがち。そんな人にとって「自分の中に優越感がある」とは、なかなか認め難いことかもしれません。

しかし、優越感を感じることで劣等感に対抗しようとしてしまうのなら、間違いなくその心はアップダウンの激しいサイクルを繰り返すでしょう。つまり、優越感を手放していないから、劣等感との縁を切れないままでいるのです。では、劣等感と優越感を繰り返すパターンからどうやって卒業したらいいのでしょうか? 両方合わせて卒業するには、そもそも物事をそうやって測って見てしまう目線自体から丸ごと卒業する必要があると私は考えます。

マインドフルネスや瞑想など、心の事柄に関心の高い方は「心の平静」といった言葉を聞いたことがあるかもしれません。それは、「平等で静か」だと私は捉えています。この例においては、劣等感と優越感のいずれにも囚われることのないマインドを指していると思います。

私が主宰するオンラインスタジオVeda Tokyoの『瞑想マインドフルネス』というプログラムでそんな話をしたら、ある女性がチャットで告白してくれました。

「私は、自分が手術で失った臓器を持っている人を目にするとどうしようもなく劣等感を感じます」と。「優越感を感じることのない劣等感についてはどうしたらいいでしょうか?」というご質問でした。

彼女の気持ちはごもっともです。それだけ辛い、大変な経験をなさっていているのですから。それでも、答えは一緒。劣等感と優越感をセットで卒業できるよう、そもそものものの見方を見直すために、少し角度を変えて一緒に考えてみませんか? 

このようなマインドセットで世の中を見るのなら、それでは「臓器を全て持っている人は、そうではない人より “より完全”なのか?」 という問いが浮上します。そのような目線で他の臓器がない人や、障害を持っている方、チャレンジド(※編集部注 )の方や病気の方を見た時に、やはり「何かが不足しており、劣等である」と考えるのでしょうか?  きっと、これにはYESという答えは出せないと思います。

※Challenged【チャレンジド】:アメリカの造語「the challenged 」が語源。「障がいをもつ人/挑戦という使命やチャンスを与えられた人」の意。

私自身、長く鬱で悩んでいた時期があるのでとてもよくわかるのですが、自虐的な思想がある時、人は内に篭りがちです。内に篭っていると、一時的に周りが見えなくなることがあります。しかし、目を開いて周囲を見てみると、世の中は思い通りにいかない人生を歩んでいる人だらけです。

プログラムの後、別の参加者からもお便りをいただきました。その方は思春期の傷つきから摂食障害が続き、拒食や過食嘔吐などを繰り返した自分のことを「ずっと未完全だと思っていた」と綴りました。

臓器の有無や障害のケースは特殊に聞こえるかもしれませんが、みなさんも一度自分事として考えてみてください。

自分のことを「“完全な姿”−(マイナス)」といった形で測ろうとしている考えが、あなたの心の中に潜んでいないでしょうか。

以前の記事でも書いたことがありますが、日本でとても多いのは、離婚を「バツ」として捉えること。「バツが付く」という表現が表すように、離婚を「自分のクリーンな戸籍を汚してしまったもの」と捉えることです。このような考えは、間違いなく心の中で劣等感を生み出すきっかけとなってしまうでしょう。 

私はといったらどうでしょう?

私は、37歳で最愛の夫を亡くし、未亡人となりました。私は、臓器は全て揃っていますが、このような視点から話すなら「夫を不足している」と言えます。(しかし、私は全くもってこのような考え方をしていません)

自分を認めること。自分の人生を認めることとは、「”完全な姿”があったはず」といった概念の元では生まれません。理想主義は、声に出していなくても「私はこの臓器があったはず」「私はこの障害さえなければよかったのに」「夫はこんなに早く亡くなるはずではなかった」といった心の叫びを何度でも自分自身に投げかけてくるでしょう。

あなたの心を苦しめているのは、「〜こうなるはずだった」という概念なのです。だから、そんな思考に気づいたら、その考えを手放す勇気を持っていただきたいのです。

次に、ちょっと強烈な言い方をするのですが、少しだけ読み続けてみてください。

私は、未亡人になるはずだったのです。

あなたは、その障害や境遇に生まれるはずだったのです。

そして、あなたにないその臓器は、 あなたには“あるはず”ではなかったのです。

!!!

なぜそんなことが言えるのかって? なぜなら、それがあなたの、そして私の現実だからです。

逆転した言い回しは残酷に聞こえるかもしれませんが、アウェアネスを持って目の前の現実を捉えるのならば、「そうではない」現実を前にしつつ「こうあったはず」といった抵抗の思考を持ち続けることの方がよっぽどあなたの心に残酷ではないでしょうか? 

目の前に在る現実と闘って勝てる人間は、誰一人としていません。

つまり、現実と闘い続けることの方が継続的な苦しみを作り出してしまうということです。

一夜で変わる思考ではなくても、まずは拒絶の思考を見直すだけの再検討の余地を設けること。そこから初めて「現実を認める」というチョイスが生まれます。そうすると初めて、自分の人生をあるがままで認めるというチョイスが見えてくるでしょう。一度に全ては見えきれないし、最初は受け入れ難く感じるでしょう。しかし、それが真実だからこそ、抵抗し続けるのではなく「受け入れる」というチョイスは至って自分に優しいことだと、私は自分のグリーフ(喪失体験による身体的・心理的・社会的な反応)を通して知りました。「受け入れる」という選択は、私にもう一度自分の人生を愛するチャンスをくれたからです。

失ったものが大きければ大きいほど、悲嘆の期間は必要です。泣きたいだけ泣いて、叫びたいだけ叫んで、全身全霊で嘆いてください。あなたの心にとってどれだけの嘆きが必要かは、あなたにしかわかりません。他の誰にも何も言わせず、あなたの嘆きはあなただけの神聖な時間として、急がず、焦らずに自分自身に与えてください。素直な嘆きの時間を自分に与えないまま「こうなるはずではなかった」といった心境的な抵抗を手放せないでいると、心の煉獄のようなところで右往左往して留まってしまうことがあります。

私にとって、最も愛した人を失うことのグリーフは、時間という意味でも、深さや大きさという意味でも、測れるものでも、語れるものでもありません。だから、何年何ヶ月かかったとも言い切れないのですが……。今の私が「あの人はいるはずだった」といった思考を毎日抱いていないことは確かです。

それは意識的に「その思考を選ばないと決めた」ということ。「彼がいるはずだった」という考えは、彼のいない人生を歩み続けようとする私にとって、全く役に立たない、むしろ私をこれからの幸せから遠ざけてしまう思考だと認知したからです。

だからもし、あなたが自分の人生に「”完全な姿”−(マイナス)」 という方程式を当てはめ続けている自分に気づいたら、まずはそのマイナスの部分、そのロスを心底嘆いてほしい。泣いて、喚いて、崩れて、叫んでほしい。子どものように駄々をこねて素直に嘆いてほしい。下手に頑張らず、背伸びをせず、まずは本当の自分であってほしい。

だけど、永遠に泣き続ける人も一人もいないのです。あなたの涙が熱く本物であればあるほど、それはあなたの心を洗い、動かすもの。「いつか必ず、涙が尽きる日が来る」とは、私自身自分の経験から確信を持って伝えられることです。だから、泣き止んだ後でいい。嘆き終わった後でも遅すぎないので、十分に本当の涙を流した後に、もう一度立ち上がってください。

その時あなたは、きっと私と同じように、「自分は何かが不足している」というマインドをもう選ばないはずです。

旦那さんは亡くなったけど、私は今でも笑っている。

摂食障害の過去と闘い続けたけど、自分の「ありのままでいいんだ」を見つけつつある。

そして臓器が一つ足らないあなたも、どこからどう見ても、美しく、完全な存在にしか見えないのです。

涙の先のクリアな視線は、劣等感や優越感といった心の天秤を越え、ただ在ることの美しさを見失わない目線をあなたに養ってくれるでしょう。

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吉川めい
ヨガマスター

MAE Y主宰、ウェルネスメンター。日本で生まれ育ちながら、幼少期より英語圏の文化にも精通する。母の看取りや夫との死別、2人の息子の育児などを経験する中で、13年間インドに通い続けて得た伝統的な学びを日々の生活で活かせるメソッドに落とし込み、自分の中で成熟させた。ヨガ歴22年、日本人女性初のアシュタンガヨガ正式指導資格者であり『Yoga People Award 2016』ベスト・オブ・ヨギーニ受賞。adidasグローバル・ヨガアンバサダー。2024年4月より、本心から自分を生きることを実現する人のための会員制コミュニティ「 MAE Y」をスタート。https://mae-y.com/