「私は、美しい」

生まれて初めてそう感じられたのは、28歳の時。初めて妊娠した時のことでした。全身の細胞が歓喜のバイブレーションに包まれ、讃美歌を歌うように、命の拡大を祝福しているように感じたその体験は、非常に印象的な感覚でした。

当時の私は、若さも健康もあったし、フィットネスも抜群で、十代の頃からモデルの仕事を続けていました。ヨガインストラクターとしての活動もしていて、ヨガ雑誌の表紙を二十冊以上は飾っていました。それでも、そんなことは一切関係なく、自分のことを「美しい」と思うなんて、妊娠するまでは一滴も感じたことがなく、実は、内面ではとても自尊心の低い自分がいました。

昔の私は、容姿を褒められても、全てはカメラマンやヘアメイク、そして照明のプロのおかげだと思っていました。逆に、顔にできたニキビ一つをきっかけに自分責めモードに陥ることも少なくありませんでした。誰かに「素敵ね」って言っていただいても、決して真に受けられない自分がいたのです。なぜなら、私の慣れ親しんだ心のデフォルト設定は、いつだって「自分は不十分であり、自分をもっと高めなければならない」と思うことだったからです。

なぜ、そんなに必死に頑張らないといられなかったのだろう? 自分でも不思議に思うことがありますが、私のように、理由を断定できないまま「自分は不十分」とか「何かが欠如している」と感じる人は少なくないと思います。

いつからか私の心は、ポカンと空いた欠乏感が常態になっていました。あるはずの何かが不足していて、その穴埋めに努めるよう、誰かに認められることや愛されること、受け入れられることを必要として必死になっていたのでしょう。きっと、欲しかったのはただ「君はそのままで大丈夫」と、愛されている実感だけだったのではないかと思います。

しかし、心に欠乏感を持っていると、人から愛をもらうことがあったとしても、いつかその愛が切れてしまうのではないかという恐れと隣り合わせにあることで、素直に受け入れられなくなってしまいます。何より、自分自身が愛に値する存在だと思えていない訳ですから、自分は無価値だと考える観念の下、仕事や恋愛などの外的ソリューションで一時的な穴埋めができたとしても、それらは決して永続的に成り立つ答えではありませんでした。

それなのに、妊娠と同時に広がった、命を内側から尊いと感じ、祝福する気持ち。それは、乾いた土に淑やかな雨が沁み渡るような命への感謝に変わり、私の心を目覚めさせました。

「ありがとう、命」と、思わず呟きたくなるほどの畏敬の念を、毎日心いっぱい感じたのです。

妊娠中期は、毎年恒例だった南インドで過ごしました。少し標高のあるマイソールという土地は、私が専門としてきたアシュタンガヨガの聖地。夏場に訪れても、強烈な東京のヒートアイランド現象よりよっぽど穏やかな気候で、どっぷりヨガの練習に浸りながら過ごす日々でした。

私の毎朝のルーティーンは、日が昇る前の真っ暗な時間に目覚め、沐浴し、心のパターンのお掃除をするようにマントラを静かに繰り返すこと。その後、まだ街灯の灯った近所の小道を歩いてヨガスクールへ向かい、マイペースに90分程度のマタニティプラクティスをしました。練習後は、心身に充満する生命エネルギーを大切に、他の練習生と雑談することもなく、少し離れたところでフレッシュなココナッツウォーターを飲み、また独りで歩いて家に帰りました。

それは、ちょうど日が昇る頃の時間。薄暗い中、玄関の戸の先にある外壁の鉄階段をそっと上がり、ルーフトップで日の出を眺めることが妊娠中の私の大好きな日課でした。かすんだ街の大気と所々伸び上がる背の高いヤシの木の向こうを見渡すと、じんわり大きな黄金のお天道様が、オレンジ色を滲ませながら登ってくる。わずか数分ですが、その神聖な時間は、まだ太陽を直視できる時間。沈黙の中で瞳を太陽に合わせると、一体感を感じられたのです。独りだけど、一人じゃない。お腹に宿ったまだ名もなき未知の存在を感じながら、一つなのに二つの鼓動を響かせ、命の源とつながりにいくような特別な時間でした。

そんな日々を過ごしていたら、当たり前に「命の素晴らしさ、ありがとう」という気持ちがこぼれ出てきました。ずっとその振動に浸っていたかったのに、ある日「でも待てよ」と、私の脳裏に違う思考が飛び込んできました。

「私はこの子を妊娠する前から、命を持っていた。自分の命があった。なのに、なぜ自分の命についてはこのような畏敬の念を一度も感じたことがなかったのだろう? どうして、自分を心底美しく、尊いものだとこれまで一度も思えたことがなかったのだろう?」と、考えたのです。

人生には、3つの偉大なミステリーがある:

鳥にとって、それは空であり

魚にとって、それは水である

そして人類にとって、それは汝自身である。

こんな言葉を思い出しました。

思えば思うほど、私はいかに自分自身を知らなかったかということに気づかされました。

自分を通って生まれてくる別の命が鏡となり、妊娠中は忘れかけていた命の尊さを思い出すきっかけをもらったのですが。その感覚がなんとも腹の奥に正しく、しっくりきたからこそ、私にとってはその先の「自分を知る」道のりにおいて大きなヒントになりました。

少しずつ時間をかけてですが、私は、外側の人や仕事、恋愛や成功などで自分の不足感を穴埋めすることが上手くいかない理由がわかってきました。自分の心が感じる欠乏感は、自分と自分の心の間柄であり、他の人やものが干渉できる領域ではないのです。

では、自分の命を尊く感じる心と書いて、どう自尊心を培うことができるかって? 自分の命の価値を知るためには、そのもののリズムや鼓動、そしてささやきに従ってみる必要があるのではないかと思うのです。それは、感覚的にはワクワクすることだったり、興味が引かれることだったり。なんだかそそられるとか「意味なく気になる」から始まることだったり。人とは違う、自分自身の心のアンテナをくすぐる感覚を見逃さないことだと思います。

親や社会や他人には見えないし、聞こえないこと。むしろ、人にわかってもらおうとする必要性を手放すことが鍵を握っていると私は考えるようになりました。なぜなら、それは自分の心の本音とのつながりを指しているものであり、それこそが自分の命の根源的な要素ではないかと思うのです。

そうやってこの生き方、この在り方が私の選ぶ人生であるということを、他ならぬ自分自身に示してあげること。それは同時に命の源に「この命、しっかり授かったよ」と示すことではないでしょうか。

ただ思うだけでなく、手や足を動かし、アクションに移すことが大切だと思います。自分の存在価値を勝ち取ってから動くのではなく、命をいただいた生き物だからこそ先立って動く。そうやってまずは動いてみて、初めてわかる価値があるのではないかと思うのです。

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吉川めい
ヨガマスター

MAE Y主宰、ウェルネスメンター。日本で生まれ育ちながら、幼少期より英語圏の文化にも精通する。母の看取りや夫との死別、2人の息子の育児などを経験する中で、13年間インドに通い続けて得た伝統的な学びを日々の生活で活かせるメソッドに落とし込み、自分の中で成熟させた。ヨガ歴22年、日本人女性初のアシュタンガヨガ正式指導資格者であり『Yoga People Award 2016』ベスト・オブ・ヨギーニ受賞。adidasグローバル・ヨガアンバサダー。2024年4月より、本心から自分を生きることを実現する人のための会員制コミュニティ「 MAE Y」をスタート。https://mae-y.com/